シャネルNO5が紡ぎ出す歴史・香水のモンスターのストーリー

シャネルNO5が紡ぎ出す歴史・香水のモンスターのストーリー

 

 

世界一有名で世界一売れている香水 シャネルNO5が2021年生誕から100年という歴史を刻みました。

 

ここでは鮮やかな伝説にいろどられるシャネルNO5の歴史を紐解きます。

 

 

 

 

シャネルNO5という香水のモンスターが紡ぎ出す歴史

 

誰もがこのシャネルNO5という特異な存在に興味を示します。100年の歴史を持つシャネルNO5はなぜシャネルNO5たり得るのか?が不思議に満ち溢れているからでしょう。

 

 

2022年までどれほどの人が手にしたのか分からないほどの著名な香水には、一貫して変わらない歴史があります。
それはこの香水の名前となったガブリエルココシャネルという女性の複雑な歴史そのもの。

 

まずはシャネルNO5がどのようにして生まれたのか?といった視点でその歴史を解き明かしていきます。

 

 

 

シャネルNO5はどのようにして生まれたのか?その歴史のプロセス

シャネルNO5の香水ボトル

 

 

「シャネルNO5以前の香り=ステレオタイプ」を鮮やかに刷新・シャネルNO5

 

シャネルNO5が生み出される前、「一つの花の香りによるシングルフローラルの香りこそが女性の香水としてふさわしい」かのような風潮がありました。

 

しかしシャネルは「良家の娘がまとうお決まりのローズの香水」というものに全く魅力を感じられず、時代錯誤であまりにバカバカしいとさえ感じていたのです。

 

女性は花そのものじゃないのよ。ローズでもミュゲでもなくてもっと芸術的で女性本来の香りを身に付けるべき。香水はまとう人との間に親密な接点のようなものがないとダメです。お粗末な香りを身に付けている女性に未来などないわ。 Coco Chanel

 

シャネル

シャネル社

 

 

この有名な発言は挑発的ながら、時代を恐ろしいほど的確にとらえていたのではないでしょうか。

 

事実シャネルNO5は100年の歴史でずっと女性用香水の絶対的クイーンとして君臨しています。

 

 

 

実際シャネルNO5には”あの香りだ”と識別できるような単一の香りは全面的に打ち出されていません(これがシングルフローラルでない調香・一つの香りが目立ちすぎず多数の香りとの調和が重視された作風)。

 

当時シャネルと親交のあったピカソのような画家は、そんな彼女の香水を「香りで抽象性を表現している」と絶賛したと言います。

 

 

シャネルとパブロピカソ

パブロピカソとシャネル getty image

 

 

シャネルNO5は清潔感と妖艶さが超絶なる均衡を保っており、シャネル自身この相反した特徴的矛盾を様々な香りを組み合わせることで表現したかったのです。

 

 

 

 

調香師エルネストボーとの出会いとシャネルNO5の誕生の瞬間

シャネルとエルネストボー

シャネルと調香師エルネストボー シャネル社

 

シャネルNO5は技術的な表現・調香・革新的なアレンジがエルネストボーに託され、その大きなイメージや作風はシャネル自身が構想しているという、両者の共同作品と言える香水です。

 

 

ファッションデザイナーであるシャネルが香水を生み出そうとしていたのも理由があります。

 

 

ライバルのファッションデザイナーが香水を売り出しているのを目の当たりにしていた背景があって「自分もいつか」といった欲求をかき立てられていましたし、
愛人ボーイカペルを事故で失ってしまった喪失感からその心の隙間を埋めるように香りの世界に魅了されていたのです

 

 

失恋中の女性

 

 

ボーイカペルを失った後、シャネルは「最後のロシア皇帝の従兄弟ディミトリパブロピッチ」と出会って恋仲になっていました。

 

彼が「ロシア皇帝にラレNO1という香りを捧げた調香師エルネストボー(フランス系ロシア人)」をシャネルに引き合わせたのではないかと考えられているようです。

 

 

 

エルネストボーはためらいながらもシャネルの香水への熱意を感じ取って仕事の依頼を引き受け、彼女と何度も香りのテストを繰り返す試行錯誤の日々を続けました。

 

シャネルとエルネストボー

映画シャネルとストラビンスキー

 

 

 

のちにシャネルはエルネストボーが用意した10本のテスターから、最終的に「NO5」とナンバリングされたものを選びます。

 

シャネルNO5が選ばれる瞬間

 

 

シャネルはめったに感情表現しない人として知られていましたが、5番のテスターについて笑みをたたえながら「これこそ焦がれていた香り。まるで(私が手掛ける)ドレスのような素敵な香りだわ」と褒めたたえたとか。

 

 

そしてエルネストボーがその香りにどんな名前を付けて売り出すのかとシャネル尋ねたところ、「NO5のまま。幸運を運んでくれるわ。」と答えたのです。

 

これが歴史に名を刻むシャネルNO5の誕生の瞬間でした。

 

 

 

歴史的秘密のレシピがシャネルNO5の原型?

シャネルNO5のレシピイメージ

 

シャネルNO5のレシピは、フランスカトリーヌドメディシスのいとこであるメアリーの処方だとする説があります。このレシピはメアリーの若さや美しさを永遠にとどめる奇跡の香水だったとか。

 

この処方が記された歴史的古文書がシャネルNO5の開発の直前になって発見され、シャネルが現在の1万ドル(約100万円)ほどで買い取り、のちにエルネストボーに渡したとも。

 

 

この説が本当か定かではありません。

 

しかしもしこの説が本当だったとしたら、歴史的古文書由来の若返りの香水だったというストーリーは顧客にな購買意欲を掻き立てる絶妙な話題として働いたのではないでしょうか。

 

 

※カトリーヌメディシスの香り好きも有名で城に調香師がいたほど。そして彼女自身も香り使いの上級者で、グラースの香料植物が育ちやすい温暖な気候に着目して香料工場を建築させた。
現フランスの香料産業のはじまりはカトリーヌにあると言って過言でなく、今では調香師養成校が立ち並びフランスのツアーに組み込まれるほどになっている。

 

 

 

シャネルの「喪失感と欲求の産物」がシャネルNO5

ボーイカペルとシャネル

シャネルとボーイカペル luxuryactivist.com/beauty

 

 

シャネルNO5の構想が本格的行なわれたのは1918年、この時シャネルは当初愛人関係にあったボーイカペルを失った喪失感に打ちひしがれていました。

 

香水を制作するにあたり、シャネルは最愛の存在を失った苦しみと悲しみの感情に向から向き合う必要があったのです。
生涯結婚しないと意地を張りながらも、それと相反するようにボーイとは結婚したいと強く心の中で願ってしまう間柄だったのです。つまりボーイカペルへの感情がシャネルNO5と深く結びついていました。

 

 

嗅覚と情動を処理する脳の領域は他の領域よりも強く結びついてお互いに多大な影響をもたらすと言います※から、恋人の匂いに特別な愛着を持つのは言うまでもない自然なこと。

 

 

 

シャネル社の有名なロゴマークである「Cの文字が2つ背中合わせに配置されたシンボル」は、Coco Chanelから取っているだけでなく、カペル(Boy Capel)とシャネルの二つのCだとした説もあるほど。

 

シャネル社のロゴを付けたネックレス

 

 

 

 

※神経学者レイチェルハーツ

 

 

 

ガブリエルココシャネルという女性の香りのルーツと5という数字

フランスシトー会修道院

 

 

妖艶さと優美を具現化したような歴史的香水であるシャネルNO5のイメージとは対照的に、ガブリエルココシャネルという女性のルーツはかなり違っていました。

 

幼少の頃に母親が結核で亡くなり、そしてシャネルは父親によってフランスオバジ‐ヌの孤児院(修道院)に送り出され、「親に見捨てられる」という悲しい体験をしています。

 

 

その修道院は入り口・祭壇・礼拝堂がそれぞれ5個あるシトー会派特有の建築様式をしており、シャネルはこの建物の中でいつのまにか5という数字に強烈な何かを感じ取っていきます。

 

五芒星の形をしたシトー会の教会

4travel.jp

 

 

そしてオバジ―ヌに生息する5枚花のシスタスはシトー会の語源とされており、聖母マリアの描写にもよく登場します。

シスタスの花

 

神秘性に囲まれて育った幼少期のシャネルにとって、5という数字が後世より重要なものになるとは思いもよらなかったことでしょう

 

 

 

また、このオバジーヌの修道院では何百年にわたってローズやジャスミンといったアロマが祈りとともに捧げられ、児童が使う清潔なリネン類にもそれらの香りが漂っていたとか。

 

 

 

シャネルの美意識の根底にある優雅さと最小限主義は、このオバジーヌの時代を通して醸成されました。

 

つまりシャネルにとってオバジーヌでの清潔感あふれる香りに満ちた毎日がいずれ世界一有名な香りとなる香水のベースとなっており、シャネルの美意識の根底にあったのです。

 

 

リネンの花

 

 

 

シャネルNO5が歴史上不動の人気を誇ってきた理由

 

香水のモンスターと言われるだけあり、シャネルNO5はつねに「なぜ歴史的に不動の人気を誇ってきたのか?」といった興味の的になってきました。

 

これには香りそのものの品質と、香りの表現の巧みさに秘密があります。

 

 

 

世界一の原料を頑なに維持した品質

シャネルNO5とジャスミン

 

 

シャネルが本格的にNO5を生み出そうとするとき・友人たちと南仏グラースを訪れた際、完璧なまでの芳香を持つジャスミンやローズに遭遇しました。

 

このあまりに優美で完璧な香りを体験し、「香水の品質を保つために最高級の原料が不可欠」と確信したと言います。※グラース産のジャスミンとローズは極上と認められている

 

 

 

そして1924年正式にシャネルNO5の権利がヴェルタイマー兄弟に渡されたのち、兄弟にも香水事業の絶対的重要事項として「最高級の原料(フランスグラース産のジャスミンとローズ)による制作」といった点が継承されました

 

シャネルNO5が世界的に有名になった礎を築いたのも”ヴェルタイマー兄弟の徹底した品質管理の歴史の上に成り立っていた”と考えらえているほどなのです。

 

グラース産ジャスミン

fujingaho.jp

 

 

ヴェルタイマー兄弟は1940年にフランスが戦争によって陥落しかける寸前にアメリカへの亡命を決心し、同時にアメリカを拠点に香水事業の継続を決意します。

 

 

戦争中と戦後という生活物資の入手もままならない時代に、シャネルNO5は最高品質の花だけを選び抜いて調合されました。

 

ヴェルタイマー兄弟自身もシャネルNO5はグラース産最高品質のジャスミンとローズによって成り立ち、それがなくては香水は「絶対に成立しない」と固く確信していたのです。

 

 

そしてフランスが占領された時代、亡命中のヴェルタイマー兄弟はシャネルNO5の香りの決め手となる花精油のアロマを確保しようと、ある大胆な策を実行します。

 

若手社員を占領下のフランスに飛ばし、「グラース産のジャスミンを連れてアメリカに戻ってくる(つまり密輸)」というミッションを言い渡したのです。

 

グラース産ジャスミン

frockflicks.com

 

 

大量の花を袋に詰め込んで帰ってくるという力業のおかげで、香水35万本分のグラース産花製油の原料が確保できたとか。

 

 

 

 

正真正銘の女性的な魅力が表現された香水だから

シャネルNO5を愛用するマリリンモンロー

 

シャネルNO5が100年間の歴史の中で不動の地位を確立している最大の理由は、溢れんばかりの女性的な魅力が表現されている点にあるように思います。

 

 

清潔感と妖艶さが超絶なる均衡を保っているという相反した矛盾を含んだ「複雑を絵にかいたような香り」が、多くの人にとってもシンパシーを覚えてしまう、個性的でありながらそれほどまでに「普遍的な美しさを持つ香り」だったというのは歴史が生んだ奇跡です。

 

 

その多様で複雑な特徴が、個々人にとってこの香水に個人的価値を見出すことを後押ししているようにも思えます。

 

シャネルNO5は手に取った個々人にとって生きる喜びや欲望を掻き立てる香水であり、そして香りと個人の密接な関係と物語を紡ぎ出す力を宿しているのでしょう。

 

 

 

 

シャネルNO5のマーケティング戦略の歴史

NIcoleKidman CHANELNO5

 

 

ニコールキッドマンが登場するシャネルNO5のCMは、近年で最も印象深い広告の一つです。

 

昔からシャネルNO5の広告はそのように巧みだったように思われがちですが、誕生当初のシャネルNO5の売り方は少なくてもそうではありませんでした。

 

シャネルNO5のマーケティングがどのように行われてきたのか?この歴史を辿っていくこともシャネルNO5の謎に包まれた物語を紐解くカギになります。

 

 

 

1920年・口コミだけで広げる控えめな売り出し

シャネルNO5の香水ボトル

 

誕生当初のマーケティングは決して大規模かつ積極的な売り出しが行なわれていたわけではなく、むしろ頑なに口コミで広げていく手法が重視されていたようです。

 

 

「シャネルNO5誕生の初お披露目」では南仏カンヌの高級レストランでシャネル自身が香水を身に付け、友人たちの注意を引こうと思い立ちます。彼女は極上のきわみと羨望は紙一重だとよく理解していたのです。

 

高級レストラン 

 

 

さらにそのあとシャネルのお店に友人たちが押し寄せることも予想していました。

 

絶妙に欲望をあおり「あれはたまたまある香水店で見つけたもので売るつもりはなかったけれど・・・そんなにおっしゃるならば取り寄せてみますわ」などとしたたかに振舞います。
後々の回想で「テーブルを通りかかる女性たちがみんな足を止めてこの香りを嗅いでいたけれど、私は知らんぷりしていた」と語っていたとか。

 

 

シャネルは当時香水で巨万の富を生み出してきた富豪達の立ち振る舞いからこのゲリラ的な宣伝方法を”悪気もなく丸きり真似た”とか。

 

 

シャネルイメージ

 

 

少なくても誕生から10年間は広告らしい広告も打たず「あくまで口コミだけで控えめに」販売され、さらにそののちの10年も断固として控えめなマーケティング戦略が行なわれています。

 

その意図は「派手で中身がない広告を打つよりも、『香水の品質』だけを前面に打ち出し、本当の価値が分かる人だけにそれを手に取ってもらいたい」というところにあったと言われています。

 

 

 

1921年風刺画家セムによって描かれたスケッチも、「シャネルNO5の広告(シャネルがセムに依頼した仕事)」かのように捉えられましたが、実際はただセムがシャネルNO5の成功に感嘆したあまりに描いただけだったのです。

 

 

風刺画家セムによるCHNEL NO5

風刺画家セムによるCHNELNO5 描かれた女性はシャネルではない

 

 

 

 

1923年〜・人気上昇中の発売からわずか3年で実業家に権利を渡してマーケティングを依頼

 

発売以来広告らしい広告も打たず人気が上昇しつつあったシャネルNO5は、1923年以下のような条件でヴェルタイマー(ヴェルテメール)兄弟という実業家に権利ごと渡されています。

 

 

シャネル自身がヴェルタイマー兄弟にNO5の生産販売宣伝マーケティングを全面的に依頼、シャネルは彼らが設立したパルファンシャネル社の収益の10%を所有

 

 

それは個人的な感情(上述ボーイカペルを失った喪失感)が投影された香水を自分の手元から手放して売り出さなければならないといった経営者としての決断でした。

 

シャネルにとってシャネルNO5は自分自身の化身のような存在であり、一方でこの香水が持つ無限大の力を信じていたため「もっと多くの人に知ってもらう必要がある」と思っていたのです。

 

 

 

また香水事業をヴェルタイマー兄弟に任せることで、「共同経営ではないからファッション事業だけは彼らに脅かされなくて済む」といった彼女なりの防衛手段としての構想もありました。

 

この時は潔い英断と考えていたはずですが、10年もしないうちに自ら「ヴェルタイマー兄弟から奪還しようとする争い」に発展しようとは思いもよらなかったはずです。

 

 

 

 

1950〜・商品よりも使う人にフォーカスした戦略

マリリンモンロー

マリリンモンロー シャネル社

 

時代は変わり1950年代には「香水を身に付ける女性にフォーカスし、商品や品質には重きを置かないマーケティング」が行なわれるようになります。

 

その代表的な存在がマリリンモンローだと言いたいところですが実際は違います。

 

1955年にマリリンモンローは「寝る時にシャネルNO5を数滴だけまとって眠る」という発言をしていますが、シャネル社がマリリンに依頼した広告ではありません。

 

マリリンのようなセクシーな女優がシャネルNO5を語るわけですから、シャネルNO5にとっても悪いことではなかったし、この香水が語られる伝説的で歴史的地位の確固たる裏付けになったほどでもあります。

 

 

 

1970年〜・ハリウッド女優の採用

 

1970年代になると、ジャックエリュという青年がマーケティングで力を発揮します。

 

香水を持つ人の個人な主観と魅力」を広告に打ち出し、具体的には著名な女優に広告に登場してもらうアイデアを追求し始めるのです。

 

カトリーヌドヌープがその初めの女優として採用されました。

 

 

カトリーヌドヌープ

カトリーヌドヌープ シャネル社

 

 

 

現代に見るシャネルNO5の広告は、前述ニコールキッドマンやジゼルブンチェンのように、女優そのものの個性や魅力にフォーカスして完璧なまでのシャネルNO5の世界が創り上げられているように思います。

 

 

 

Gisele Bundchen CHANELNO5 the one hart I want

 

約3分という尺ながら引き込まれるショートフィルムの一例。
The one hart I wantというフィルムタイトルは「自分に合うのはたった一つしかない」と語り掛け、シャネルNO5がそれぞれの女性にとっての物語を紡ぎ出す魔法を持っているかのようなイメージを掻き立てる

 

 

 

 

時系列で見るシャネルNO5の歴史

 

フランス政府によるとシャネルNO5は30秒に1本売れている香水だとか。

 

シャネルNO5の歴史の謎解きの最後に、時系列この香水のモンスターの軌跡を追ってみようと思います。

 

 

 

  • 1909年 当時の愛人バルザンの出資により婦人帽子店をオープン
  • 1910年 愛人ボーイカペルの出資によりパリカンボン通り21番地に新店舗オープン
  • 1911年 ファッションデザイナーポールポワレが初めて服飾デザイナーの立場で香水を売り出す
  • 1912年 ウビガン社により複数の花の香りを組み合わせたケルクフルールという名の香水が発売され、シャネルは強く影響を受ける
  • 1918年 シャネルは服飾デザイナーとしての地位を確立しつつ、シャネルNO5の制作に取り掛かる
  • 1919年 モーリスババ二が服飾デザイナーとして香水を売り出す
  • 1920年 夏から秋にかけてシャネルNO5が完成
  • 1923年 シャネルがヴェルタイマー兄弟にNO5の生産販売宣伝を全面的に依頼
  • 1925年 パリ博において「シャネルNO5を通してモノが初めて人個性を表現した」という視点で語られた
  • 1931年 ハリウッド映画監督のサムゴールドウインが(映画の宣伝のために)ココシャネルに女優の服をデザインしてほしいと依頼
  • 1934年 はじめて単独による新聞広告(ニューヨークタイムズ)が掲載される
  • 1959年 ニューヨーク近代美術館の特別展にシャネルNO5のボトルが展示され、のちに永久保存コレクションに加えられる
  • 1980年 POPアートの巨匠アンディーウオーフォールの絵にシャネルNO5が登場

 

 

 

 

シャネルNO5は妖艶さと清潔さが絶妙に均衡を保って成立している類まれな歴史的香りの芸術作品です。そしてそんな印象とは裏腹に、複雑な歴史を辿ってきました。

 

それはガブリエルココシャネルという女性自身の複雑に満ちた歴史と言って過言でありません。

 

ファッションデザイナーとして一流でありながら、恋仲にあった男性との関係をビジネス上でも平然と淡々と濃厚に横展開していく(それがさも当たり前かのごとく)、そして一度手放した香りを常軌を逸した狂乱で取り戻そうとした女性、

 

この女性の中にあった多様な魅力そのものが今なお100年の歴史として輝きを放っています。

 

 

この強烈な彼女の個性に今なお私たちは魅了され続けているわけです。

 

 

 

参考文献
  • シャネルNO5の秘密 テイラーマッツェオ
  • シャネルNO5の謎 大野容子
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